岡見公園のむかし

香住海岸周辺は江戸時代から美しい景観であることが知られていました。その景観を守るため、1938年に名勝として国の指定を受けました。1955年には国定公園、1963年には国立公園に指定されています。さらに2010年には世界ジオパークネットワークに加盟認定され、世界的に貴重な地域であることが認められました。岡見公園からはその美しい景観を一望できます。この特集では、岡見公園の今昔を紹介します。

岡見公園のむかし

皆川淇園『月波楼の記』

江戸時代の儒学者、皆川淇園はその著書『月波楼(げっぱろう)の記』の中で、香住海岸の美しさについて述べています。淇園は一日市に住む季経という弟子に依頼され、この文章を著したようです。季経の曽祖父が建てた月波楼という建物からは、四季折々の香住海岸が見晴らせました。そこから見える光景は、晴れた日も雨の日も、風の日も雪の降る日も皆素晴らしく、見る人の目を楽しませます。なかでも月の明るい夜は格別で、練絹のような光の道が海面に生まれ、楼のすぐ下まで伸びていました。まさに心洗われる景色です。他に岡見公園や白石島、黒島などに関する記述があり、昔の人も同じ景色に感動していたことが分かります。


皆川淇園 著 ほか『淇園文集 12巻後編3巻』[10],刊,文化13 [1816] 序. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2559337 (参照 2023-12-22)


月の道(余部埼灯台より)

鎌足神社の伝説

いまを去ること数百年前。まだ魯や櫂や帆を使って原始的な漁を行っていた時代のおはなしです。香住沖の漁場には毎年どこからかイルカの大群が押し寄せて、漁師さんたちは魚が獲れずに困り果てていました。ある日の集まりで、イルカ退治の方法を相談していたところ、村の長老が名案を思い付きました。「イルカのことなら、蘇我入鹿を倒した中臣鎌足様にお願いしてみよう」。こうして建てられたのが岡見の西側の島の上の祠「鎌足神社」だといいます。鎌足神社に祈願したところ、海一面に寄せていたイルカの大群はどこかへ姿を消しました。その年からは、春になってもイルカに悩まされることなく漁ができるようになったそうです。

以来、鎌足神社鎮座の日である4月3日には、お釜たきの神事が行われ、多くの漁業関係者が参列しています。香住における特殊神事の一つに数えられています。

終戦前日の香住沖海戦

1945年8月14日昼ごろ、香美町の沖合およそ6キロの海域で、輸送船などの護衛に当たっていた旧日本海軍の艦艇がアメリカ軍の潜水艦からの魚雷攻撃を受け、沈没しました。その2時間後、別の艦艇も攻撃を受け沈没。「香住沖海戦」と呼ばれるこの戦闘で、2隻の乗組員411人のうち56人が犠牲となりました。海に投げ出された生存者の多くは、漁船で向かった漁師たちに救助され、地元住民によって手当を受けました。

終戦のわずか1日前に起きたこの惨事は旧日本海軍にも報告されず、終戦後の混乱などで長年にわたり広く知られることはありませんでした。戦没者の供養を個人的に続けていた地元漁師に香住青年会議所の役員が出会ったことがきっかけで、1977年、岡見公園に慰霊碑が建立され、慰霊祭が行われるようになりました。香住青年会議所は、生存者や遺族から聞き取った話を地元の子どもたちに語り継ぐ活動を続けています。

天王山八坂神社

岡見公園の入口には、八坂神社の鳥居があります。

鳥居を潜り、見晴らし台に向かう坂の途中、町指定の椎の木群生林の中に八坂神社は鎮座します。

祭神は、須佐之男命・櫛稲田姫命・八坂刀売命(神社調書には、大国主命も記す)。創立年次不詳。神仏習合の頃には牛頭天王をお祀りし、麓の長福寺は八坂神社の別当寺にあたりました。廃仏毀釈の行われた明治期には牛頭天王尊像を長福寺に遷座、維新100年を経て再び八坂神社の本殿に遷御されました。1905年に社殿が焼失、その後再建されました。

一日市八坂神社初代神輿は1698年に造られ、その昔は一日市・若松両村で担ぎ渡御していました。現在の神輿は1882年に新調されたもので、その10年後、初代神輿は湯村の八幡神社に納められました。1998年には初代神輿が里帰りし、西港にお旅所を設けられ3000名もの人が祝いました。

秋祭りには、但馬地方では香美町だけに残る伝統行事・三番叟(香美町無形民俗文化財)が奉納されます。

Column

八坂神社の起源はオーロラ?

太陽表面で大きな爆発現象「太陽フレア」が発生し、国内外でオーロラが観測された2024年5月、ここ香美町でも役場職員がオーロラ撮影に成功し話題となりました。

オーロラが約650年前にも出現していた可能性を示す史料に、八坂神社と長福寺の創建にまつわる伝承が記された「但馬美含郡卯月嶋山長福寺縁起」と「天王御影向縁起」があります。1370年(応安3年)秋、夜に空が輝くという現象が続いて人々が恐れをなしていたところ、一人の童女の神託によりこれが牛頭天王の光であることが分かり、廣峯牛頭天王を勧請したとされています。同じ年に京都でオーロラが目撃されているとなどから、光が赤気(オーロラ)であったのではないかとの仮説が立てられています。

八坂神社の起源はオーロラ?

石灯籠と石仏

香住海岸を見晴らせる展望広場には岡見公園のシンボルの巨大な石灯籠があります。現在の灯籠は3代目で、側面に「御神燈」と書かれています。

岡見公園内には数体の石仏があり、それぞれ優しい表情で佇んでいます。思わず手を合わせたくなるようなお姿です。

長父子の碑

岡見公園の麓には、漁港の建設に尽力した親子の碑が建てられています。

昔、香住沖は豊かな漁場でしたが大きな港が無かったため、大きな船をつけられず、港の整備は漁業関係者の悲願でした。その思いを受け、1893年に香住村漁業組合が設立されました。初代組合長として、当時35歳の若さで村長に就任していた長熈(ひろし)が選ばれました。長熈は初代の漁業組合長として漁法の改善などの漁業の近代化と組織化を成功させ、港湾整備促進に尽力しました。しかしながら、港湾整備のなかばの1921年にこの世を去りました。その熱い思いを継いだのが息子である長耕作です。1922年に37歳で第3代組合長となり、港湾整備の推進に心血を注ぎました。その甲斐あって1929年7月に漁港修築の計画がまとまり起工式が執り行われました。しかしながら、長耕作はこの完成を見ることなく、同年8月に惜しまれながら43歳の生涯を閉じました。

長父子の漁港整備にかける熱い思いは地域の人々に引き継がれ、翌1930年8月に修築工事が始まりました。戦争で漁船が軍に徴用されたりして漁獲高が激減した時期もありましたが、人々は困難に立ち向かい1951年には第3種漁港の指定を受け、日本海有数の漁港となりました。

岡見公園の地形

岡見公園は、もともと市杵島という島でした。矢田川と香住谷川の流れで運ばれた土砂が河口に堆積することで、陸地(砂州)が徐々に広がり島と一繋がりとなりました。「岡見」の名が使われるようになったのは江戸時代で、廻船(北前船)の日和山として使われていたためこの名が付いたといわれています。

山陰海岸ジオパークは、京都府、兵庫県、鳥取県にまたがる東西約120kmの広域ジオパークです。日本列島が大陸の一部だった時代から今日に至るまでの日本海の成り立ちと大地の営みが刻まれています。岡見公園でも、火山活動によって生まれた節理や岩脈、断層などを観察することができます。

【城山の柱状節理】

国の天然記念物「鎧の袖」と同じく、日本海が拡大した後に噴出したマグマが冷え固まってできました。ダイナミックで美しい縦の割れ目(柱状節理)が特徴です。

【川尻山の断崖】

日本列島がユーラシア大陸から離れようとする頃に、この近くの火山が水中(湖底又は海底)で大噴火を起こし、流れ出たマグマは冷え固まりました。その後、日本海ができる過程で起きた地殻変動により隆起しました。

【地形についての参考文献】

特定非営利活動法人たじま海の学校(2013) 『観光まちあるき 香美がたり 岡見公園編』 キャメル.

●もっと知りたい方は、地元の人が語り伝えるまちあるきガイド「香美がたり」へ

マップ

  • 城山の柱状節理
  • 川尻山の断崖
  • 鎌足神社
  • 八坂神社
  • 石灯籠
  • 長父子の碑

岡見公園の花々

ページトップへ